絵本・児童文学研究レポート

絵本・児童文学についての自由研究ブログです

奪われた時間を取り返す『モモ』

『モモ』

 ミヒャエル・エンデ 作・絵 大島かおり 訳 岩波書店 (1976)

 小学校5~6年生頃から

 

【あらすじ】

モモは背が低くやせっぽっちで、くしゃくしゃにもつれた巻き毛をしている女の子。いつもだぶだぶの上着を着て、劇場跡の半分くずれかけた小屋をすみかにしています。お父さんやお母さんはいません。しかし、モモの周りにはいつも近所の子どもたちが集まっていました。道路掃除夫ベッポや、観光ガイドのジジという親友もいました。モモは、人の話を聴くことに長けていて、みんなモモに話を聴いてもらうと、元気になって帰っていきました。そんな風に幸せに過ごしていた頃、人間たちから時間を奪う灰色の男たちの存在が。モモは盗まれてしまった人間の時間を取り戻す旅に出かけます。

 

 

奪われた時間を取り返す『モモ』

 

今の時間を奪われたら、過去を振り返ることもできず、未来への希望ももてなくなってしまいます。

 

時間どろぼうは、人間たちから時間を奪い、感じる力を奪ってしまいました。

 

しかし、そこには現代の大きな課題が潜んでいたためであり、時間どろぼうはそれにつけこみ、人間たちはそれに踊らされてしまっただけなのです。

 

 

効率さを追及しすぎて、速さ、合理化ばかりを追い求める。

 

成功することが第一で、損得ばかり考える。

 

本来は、無駄をなくすことで、時間にゆとりのある生活を求めて始まったことであるはずなのに、本来の目的を忘れてしまうと、大切なものを見失ってしまいます。

 

 

ものごとをゆっくり眺める時間、人と人とがかかわり合い、共感し合う時間、喜怒哀楽などの人間的な情操は、人間が人間らしく生きるためには必要なものです。

 

これは、日々の営み、日々の積み重ねから見えてくるもので、「今」を大切にするということだと感じます。

 

 

合理化、効率さそれ本来は悪いものではありません。

どちらかを求めて、どちらかを悪者にしてはいけないのです。

 

 

モモは時間どろぼうから、人間たちが奪われた時間を取り戻してくれました。

 

しかし、人間はまた知らぬ間に時間を奪われてしまうかもしれません。

 

今度それを取り戻すことは、自分でしかできないのです。

 

 

「未来」ばかりを見据えてしまうと、目先のことに追われてしまう。

ただ、未来に希望をもちながら生きることは、生きがいにつながります。

 

「過去」を振り返ってばかりではいけない。

しかし、思い出を大切にしながら、今の自分の糧にすることもできます。

 

「今」の時間を精一杯生きること。

「今」を生きる積み重ねが、自分自身を形作っていくのではないでしょうか。

 

 

 

信じるものを選び取る『銀のほのおの国』

『銀のほのおの国』

 神沢利子 作 堀内誠一 画 福音館書店 (1972)

 中学・高校・一般~

 

【あらすじ】

部屋の壁に飾られている剥製のトナカイ。ある時、たかしはその剥製にロープをかけて遊んでいた。呪文をかけてみると、トナカイのガラスのひとみの奥でほのおがかすかにゆれた。すると突然、ロープとともにぐんぐん壁穴に引っ張り込まれていき、トナカイは生き返って逃げて行った。たかしは妹のゆうこと共に突然、林の中へ紛れ込んでしまう。そこは、動物たちが人間と同様に話し、暮らしている国。たかしとゆうこは帰り道を探し、旅を続ける。そこでは、トナカイの「銀のほのおの国」再生に向けた、動物たちと青イヌとの壮絶な戦いが待っていた。日本で生まれた本格ファンタジー

 

 

信じるものを選び取る『銀のほのおの国』

 

突然、動物たちの世界に迷い込み、トナカイと青イヌの戦いに巻き込まれたたかしとゆうこ。

 

「なぜ僕が・・・」

「早く帰りたい」

 

でも帰るにはどうしたらよいのかわからない。

 

帰る道を探すためにトナカイの行方を捜します。

 

 

どうして私がこんな目に・・・。

 

時に人はそういう場面に会うことがあるかもしれません。

 

そんなときにいかに自分を保ち続けるか、大変困難な課題であると思います。

 

 

旅を続けていく中でたかしは様々なことを思います。

 

うさぎのはね坊主が死んだとき、

 

「なんのために自分はこんな旅をし、何のために子ウサギは死んだのだろう」

 

戦いに傷ついたトナカイの少年を看病しているとき、

 

・・・かあさんがやられたと泣きじゃくったトナカイと、自分と、いったいどこがちがうというのだろう。

(ちがうのはこのトナカイが、いかにも誇らしくいのちを賭けて戦っているのに、ぼくは傷つくまいとしてかくれていることなんだ。)・・・

(だけど、ぼくは死にたくないさ。ゆうこは無事にここにいるけど、あいつをつれて家に帰らなくちゃならないんだ。ここで死ねるものか・・・)

 

  

たかしが、トナカイと青イヌの戦いに身をもって加わることもできたかもしれません。

しかし、それはできませんでした。

 

なぜなら、自分は帰らなければならない存在だったからです。

 

妹のゆうこを連れて、もとの世界へ。

 

生きて帰るということが、たかしの大切な使命でした。

 

 

たかしは旅の中で、死や裏切り、猜疑心など多くの困難な状況に出会います。

 

そして、荒野の掟である、

「生きるために他の生きものの死を前提としなければならない」現実を目の当たりにします。

 

しかしその中で、彼に手助けをし、食べ物を与えてくれる小さな生き物たちにも出会いました。

 

様々な状況を乗り越えた中で、「生きていくには、常に選択していかなければならないという厳しさがあること、そしてそれは自分を信じるということにつながっていくということ」をたかしは実感していきます。

 

戦いが終わり、無事に帰って来られた後、たかしはこう誓うのです。

 

(・・・いつかわからないある日、ぼくも大切なものを守るために、戦う日が来るかもしれない。・・・見ていてくれ、はやて。何が敵で何がほんとうで何がうそなのか、見分けることはむずかしくとも、ぼくは、きっと、信じるものを選びとるよ・・・・・・)

 

信じるものを選択していく力。

 

時には迷うこともあるでしょう。間違えることもあるでしょう。

 

しかし、その疑いをもちつつ、選択していくということが、生きていくということなのだと感じました。

 

時間を超えた物語『トムは真夜中の庭で』

『トムは真夜中の庭で』

 フィリッパ・ピアス 作 高杉一郎 訳 岩波書店 (1967)

 小学校4~5年生頃から

 

【あらすじ】

せっかくの夏休みなのに。トムは弟がはしかにかかってしまったために、親戚のおじさん、おばさんのところへ預けられることになった。おじさんとおばさんとはなんとなく合わない。ここは何にもすることがないし、どこにも行けないし、一緒にしゃべったり、遊んだりする相手がいないからひどく退屈だ。早く寝なさいと言われても寝られない。そんな時、大時計の鐘が十三時をうつ。そんなことがあるはずはないと思ったトムは、大時計をこっそり見に行く。すると裏庭にはみたことのない庭園が広がっていた。その夜から、毎晩時計が十三時になると、トムは秘密の庭園に行き、そこでハティという女の子に出会う。トムとハティの時間を超えたファンタジー

 

時間を超えた物語『トムは真夜中の庭で』

 

『トムは真夜中の庭で』の作品は、トムとバーソロミュー婦人の孤独感や時間の構図、庭園の描写などが素晴らしく、大変引き込まれました。

 

まずは、トムとバーソロミュー婦人の孤独感。

 

トムは弟がはしかにかかってしまったために親戚のおじさん、おばさんのうちに預けられます。

 

話が合わないおじさん、おばさんと過ごす中で疎外感が募り、孤独を感じるようになっていきました。

 

バーソロミュー婦人は、年を取り、やっかいがられている存在です。

また小さい頃、婦人がハティと呼ばれていた時も、いとこの男の子たちには相手にされず、みなしごであるハティを育てているおばさんもハティのことをかわいがっていませんでした。

 

二人の孤独感が二人を近づけていったのです。

 

 

そして、作品の中の時間の構図。

 

トムは今をずっと生きていますが、ハティは会うたびに大きくなっていきます。

 

それは、バーソロミュー婦人は追体験の中で生きているからです。

 

そういった二人の通常の時間である量的・物質的時間と、二人の共感的・質的時間である想像上の時間との偶然の一致の世界が、この作品に深みを与えています。

 

そして、私は何より、庭の描写がとても美しいと感じました。

 

トムが何度も訪れたくなるのがわかる素晴らしい庭園。

 

作者のあとがきからもわかるように、実際にあった庭園のことが描かれているというから、相当思い入れがあったのでしょう。

 

話の後半、ハティの中でトムがだんだんと薄れていきます。

 

そして、トムはついに庭園に行けなくりました。

 

しかし、その後トムはハティと再会することになります。

アパートの3階に住んでいて、今はバーソロミュー婦人となったハティと。

 

キラキラ輝くおばあさんの黒い目はハティの目でした。

 

最後の別れの時に、トムとバーソロミュー婦人は親しみを込めて抱き合いました。

 

その時の二人は、庭園の中で出会った頃のトムとハティだったのでしょう。

 

 時間を超えた二人の素敵なファンタジーです。

自伝的文学『泣き虫ハァちゃん』

『泣き虫ハァちゃん』

 河合隼雄 作 岡田知子 絵 新潮文庫 (2007)

 5~6年生頃から

 

【あらすじ】

ハァちゃんは、城山家の男ばかりの6人兄弟の5番目。「どんぐりころころ」の歌詞の意味を知り、どんぐりの行方を案じて泣いてしまうような、感受性豊かな男の子だ。あたたかい子ども思いの両親、仲の良い兄弟に囲まれ、丹波篠山の大自然の中でのびのびと過ごす。臨床心理学者、河合隼雄の遺作となった、自伝的小説。

 

「ほんまに悲しいときは、男の子も、泣いてもええんよ」

 

ハァちゃんは、泣き虫で、感受性豊かな男の子。

 

「何かの加減で体中がじーんとなってくると、もうたまらない」。

 

ハァちゃんが小さい頃、弟のあきちゃんがふたつで亡くなりました。

 

お母さんは仏壇の前で毎日泣いていましたが、ハァちゃんはいつもお母さんの傍にいて、お母さんと一緒に泣いたり、御詠歌をあげる真似をしたりしていました。

 

どんぐりころころの歌の意味を知って、どんぐりの行方を案じ、涙を流してしまうハァちゃん。

 

弱いものに寄り添い、共感する力が幼い頃から備わっていたのでしょう。

 

臨床心理学者、河合隼雄の心の豊かさが表れるエピソードです。

 

 

そんなハァちゃんの人間性は、自然豊かな兵庫県丹波篠山の豊かな自然の中で、あたたかい父母や仲の良い兄弟たちに囲まれながら、育っていきました。

 

「ハァちゃん、ほんまに悲しいときは、男の子も、泣いてもええんよ。」

 

と言ってくれるお母さん。

 

サンタさんに、「お父さんも自分にプレゼントを頼むことにした」というお父さん。

 

山や川を駆け回り、小さい弟も輪の中に入れて遊ぶ、仲のよい兄弟。

 

その人の原点というのは、やはり生まれ育った土地や家族に大きな影響を受けるのだと感じずにはいられませんでした。 

 

そして、小さな頃の漠然とした不安や孤独感、「冬の時代」。

 

誰の身にも起こるような、心の揺れ。

 

それらが丁寧に描かれているということは、その時代の自分自身に一途に向き合ってきた証拠なのでしょう。

 

ハァちゃんの思い出とともに、自分自身のせつなく、ちょっぴり恥ずかしくなるような思い出が蘇ってくるようです。

 

 

ヒトラー政権下の物語『あのころはフリードリヒがいた』

『あのころはフリードリヒがいた』

ハンス・ペーター・リヒター 作 上田真而子 訳 岩淵慶造 挿絵

岩波少年文庫 (1977)

中学・高校・一般

 

【あらすじ】

「ぼく」のアパートの一階上に、フリードリヒ一家が住んでいた。「ぼく」にとってフリードリヒは大切な親友だ。第二次世界大戦時、ヒトラー政権下にあったドイツ。ユダヤ人弾圧の波が押し寄せる。「ぼく」はドイツ人で、彼ら家族はユダヤ人だった。抗えない現実を目の当たりにする「ぼく」。「ぼく」から見た、フリードリヒの生きた軌跡を描く。

 

ナチスドイツ政権下の中で生きた一人の少年の物語

 

『あのころはフリードリヒがいた』を読んだ後に眠りについた私は、夢の中でフリードリヒになっていました。

 

まだ弾圧が激しくない頃のようでしたが、何かから追われるように、「ぼく」と一緒に逃げ走っていました。

 

「ここで別れよう」と「ぼく」と別れた私(フリードリヒ)は、近くにあったウィンドゥに映った自分の顔をじっと見つめます。

 

そこには、決意の表情が表れていました。

 

 

自分はユダヤ人だというだけで弾圧された時代。

 

ヒトラー政権の中で、ドイツにいることが困難な中で、そこに住み、最後までユダヤ人としての誇りをもっていた人たち。

 

そこで生きる覚悟のようなものを、先ほどの夢の中に出てきたフリードリヒの中に見たのです。

 

作者は、この本を事実の伝承をもとに、年表を添えて語っています。

 

「あの頃、あの時代に、フリードリヒという少年がいた」ということを忘れないために。

 

戦時中の出来事の多くは、「ドイツ人が・・・」「ユダヤ人が・・・」「死者何人」という形で語られ、個人名が出てくることは多くありません。

 

しかし、そこに生きていた人たちというのは、「フリードリヒ・シュナイダー」という名の彼だったり、「ヘルガ」という名の彼女だったりするのです。

 

一人一人に物語がありました。

生きている証がありました。

 

人としての人権を完全に奪われていた時代。

その人たちが生きていた証を、作者は残したかったのでしょう。

 

フリードリヒが死ぬのを、間近で見なければいけなかった「ぼく」。

 

ユダヤ人の死を悲しんだドイツ人もたくさんいたはずです。

 

大切な人の死を悲しまない人がいないのと同じように。

 

おいしそうないいにおい『ぐりとぐら』

ぐりとぐら

 中川李枝子 作 大村百合子 絵 福音館書店 (1963)

 0~3歳頃から

 

【あらすじ】

ぼくらのなまえは ぐりとぐら。このよで いちばん すきなのは おりょうりすること たべること。のねずみのぐりとぐらは、大きなかごをもって森の奥へ。すると、道の真ん中には大きなたまご。これで、おおきなかすてらをつくろう。大きすぎて運べないから、ここにおなべを持ってこよう。だんだんといいにおおがしてきて、森のみんなが集まってきます。

 

おいしそうないいにおい『ぐりとぐら

 

ぐりとぐらは、のねずみの双子のきょうだいです。

 

二人は、森の奥でみつけた大きなたまごで、大きなかすてらを作ります。

 

たまごをボウルへ流し込み、おさとうと一緒にあわだてきでかきまぜて、小麦粉を入れて。

おなべにバターをよくぬって、材料を入れて、ふたをして、かまどにかけて。

 

おいしそうないいにおいにつられて、森のみんなも集まってきます。

 

期待で胸が高鳴ります。

ドキドキ ワクワク。

待っているみんなの表情がとても良いです。

 

そして、おなべのふたを開けると、まっきいろのかすてら!

おいしそう!

 

みんなで分け合って食べています。

フラミンゴさんは、これから食べるところ?

それとも、オオカミさんは二つ手に持っているけど、もしかして取られちゃったのかな?

 

あなたはどう思うでしょうか。

 

子どもたちの再現活動がうんと働く作品です。

 

あとに残ったのは、からっぽの大きいおなべと、あの大きいたまごのからだけ。

 

さあ、この からで、ぐりと ぐらは なにを つくったと おもいますか?

 

 

思い切り遊ぶ『めっきらもっきら どおんどん』

『めっきらもっきら どおんどん』

 長谷川摂子 作 降矢奈々 画 福音館書店 (1985)

 3~4歳頃から

 

 

 

【あらすじ】

かんたはあそぶ友達を探しに神社まで出かけたが誰もいない。かんたは、しゃくだから大声でめちゃくちゃのうたを歌った。「ちんぷく まんぷく あっぺらこの きんぴらこ じょんがら ぴこたこ めっきらもっきら どおんどん」。すると木の穴から奇妙な声が聞こえてきた。のぞきこむと、ひゅうっと穴に吸い込まれて・・・ゆかいなおばけ3人組とかんたのお話。

 

思い切り遊ぶ『めっきらもっきら どおんどん』

 

『めっきらもっきら どおんどん』は、私の大切な作品です。

 

それは、大学生時代に、人形劇で主人公のかんたを演じたからです。

 

まずは、人形作りです。

発砲スチロールの大きな塊をカッターで削って、布を張って・・実物大くらいの大きな人形を作りました。

そして、絵本読み込んで、何度も何度も練習します。

舞台設営し、本番の公演。

巡回をして、様々な地域で公演をしました。

 

本当にたくさんの思い出があります。

 

私は、かんたになって、ゆかいなおばけたちとたくさんの遊びをしました。

 

「しっかかもっかか」とは、くびにふろしきを巻いて、「モモンガ―ごっこ」。

 

「おたからまんちん」とは、ビールの王冠とステキな水晶玉との「おたからこうかん」。

 

「もんもんびゃっこ」とは、二人で息を合わせて、山まで、月までとぶ勢いのなわとび。

 

「そらとぶまるた」では、歌を歌って大盛り上がりです。

 

おなかがすいたら、おもちのなる木を見つけて食べて・・

 

 

いっぱい遊んで、いっぱい食べて、大満足のかんた。

 

でも、お母さんを思い出して、お母さんの名を呼んでしまったら、元の世界へ戻ってしまいました。

 

行きつ戻りつのファンタジーです。

 

夢中になって遊んだあの時。

 

―きみなら おもいだせるかな?